いつだって本当のヒーローは自分たちの身の回りにいる。輝き放つ無数のヒーロー達は昭和の日本の誇りであり象徴だ。
育っていく子供達にとって明日の日本がすこしでもいいところになればとヒーロー達は願っていたに違いない。
朝日新聞 1971年(昭和46年)5月20日 より。
浴風会は老人ホームである。収容者約800人。都内で二番目の規模。木立にかこまれた広い構内に、病院、寮など二十ばかりの建物が散らばっている。
「郁一」とだけ署名した手紙がはじめて浴風会に届いたのは、7年前、昭和39年の1月だった。五百円札が一枚、きちんとたたまれて同封してあった。
手紙はその後、毎月来た。昭和42年4月、五百円札が千円札になった。二千円になったのは去年(昭和45年)の8月である。
家族の消息がいつも手紙に書かれていた。7年間に長女が生まれ、次女が生まれ、長男が生まれた。母親と当主の弟をいれて7人家族らしい。手紙の字はいつも女性の筆跡だった。
1月下旬、突然、本名で手紙が届いた。いつも上旬に届いていた送金が、二十日ほどおくれていた。こう、あった。
「遅れてすみません、実は自宅から家事を出し、丸焼けとなりました。申し訳ありませんが、しばらく送金を中止させていただきます。再起しましたら、また送ります。お元気で、」
7年1か月、休みなし。送金額が多かった月もあり、総額は九万円に近くなっていた。
「郁一」は夫婦の名、一と郁子をあわせたものとわかった。「お世話になりっぱなし、という法はない。今度はこちらがお見舞いに行きたい」という声が、老人たちの間でおきた。十円玉ひとつ、50円玉ひとつ、と見舞金が集まった。激励文が集まった。焼け跡を、老人の代表がたずねた。「郁一」は三十代前半の、まだ若い夫婦だった。
人生には一生の内、善き事悪しき事様々の事があります故、決してお力落しのなき様、、、、男 87歳
非力の私等で御座います。何分にも、お力添えできないことを悲しむ者で御座います。ただただ奮起あそばす事を、、、女 81歳
ふた月間をおいて、4月5日からとだえていた手紙が届いた。
「ありがとうございました。お礼のことばもありません。8回目の結婚記念日の今日から、また送金させていただきます。」
老人たちは歓声をあげた。
5月も五日付で二千円が届いた。夫婦はまた頑張りはじめたようだ。
「郁一」夫婦をたずねた。食料品店は、小さいが再建されていた。経営者として、二人は忙しく働いていた。一(はじめ)さん33歳、郁子さん34歳、高校の同級生である。
「生きるって、すばらしい。今度の家事で、ほんとうにそう思いました。直後は、自分の家を燃しただけですんだものの、世間に対して悪いことをしたと、と気がめいっていたんです。ところがあの手紙でしょ。災難の後、2ヶ月ちょっとで店が開けました。借金は5年計画で返します。失ったものは失ったもの、とハラがきまりました。うれしいんです、いま。はりきっています」
「公害、交通事故、機関の歯車のような生活、私達だって不平とか不満はありますよ。でも、私たち、人間を信じます。だって、信じたくなりますよ、これだけ善意をつきつけられれば」